マリア・テレジア 


マリア・テレジア(1717-1780 在位:1740-1780) オーストリア 神聖ローマ帝国
ターレル銀貨 41mm 28.74g クレムニッツ(ハンガリー)ミント 1742年製

1759年の肖像(マリア・テレジア 42歳) 1727年の肖像(マリア・テレジア 11歳)
■肖像から
 上の2つの肖像は同じマリア・テレジアだが、こうもちがうものか。左は大国の舵取りを担うだけの貫禄が感じられる。オーストリア史上のマリア・テレジアの評価は高い。「国の母」と言われている。この肖像にも「肝っ玉母さん」という雰囲気が漂ってくる。
 一方、右の肖像の可憐なること。わずか11歳、小学5年生程度の年齢だが、上品さとキリッとした聡明さを感じる。
 日本で 「ハプスブルグ展」なる展覧会があって、オーストリアやスペインのハプスブルグ家ゆかりの品々を展示していた。有名なスペインの「マルガリータ王女」や「皇妃エリザベート」の肖像画もある中で、この少女時代のマリア・テレジアの肖像画が、一番多くの人の心をとらえていたようである。
 コインは1742年製だが、この図案は1741年にできているようだ。ハンガリー王・オーストリア大公に即位したばかりの24歳の時の肖像である。

■王族の恋愛結婚・多産
 当時の王族の結婚は100%政略結婚であった。その中で、夫フランツとは恋愛結婚であった。ハプスブルグ家というヨーロッパ最高の名門において、それは奇跡的なことである。
 夫婦仲は良く多産で、夭折した子を含めると16人もの子どもを産んだ。親は恋愛結婚であったが、子ども達の結婚は、政略結婚であった。末の娘のマリア・アントーニア(左画像)は、フランス・ブルボン王家ルイ16世に嫁いだ。
下画像:末娘のマリア・アントーニア
■マリー・アントワネット
 マリア・アントーニア、この名をフランス語読みすれば、マリー・アントワネットである。オーストリアの隣国プロイセンの国力が急速に伸びたため、これに対抗すべく、長年の宿敵であったフランスと手を結んだ。そのための政略結婚である。

 マリア・テレジアは、あまり出来がいいとは言えないこの末娘のことが心配で心配でならなかった。手紙を頻繁に送っている。手紙は、母親として、娘の幸福を願い、考えの浅い娘をたしなめるような内容であった。それに対して、ピント外れな娘の返信。
 さて、このせっかくの母の忠告も無駄に終わった。1789年にフランス革命が勃発し、1793年に娘マリー・アントワネットは、断頭台へと上った。
 幸い?この結末は、母マリア・テレジアの知るところではなかった。母は、フランス革命の9年前の1780年に、亡くなっている。
 

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