カリフの権威の推移  

■そもそもカリフとは・・・
 マホメットの後継者・代理人で、イスラム世界の長。宗教的にも政治的軍事的にもトップの立場となる。当然イスラム世界に一人だけという存在である。

■アッバース朝がカリフの座に 後ウマイヤ朝がイベリア半島に
 イスラム帝国ウマイヤ朝に対し、750年アッバース朝が革命を起こし、カリフの地位を世襲するようになる。もとのカリフであったウマイヤ朝は、ダマスカスから逃れ逃れ・・・北アフリカからジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に入る。756年この地で後ウマイヤ朝を興した。この時点ではカリフを名乗っていない。

イスラム世界にカリフは一人の原則を守ったのか、後ウマイヤ朝では、929年まではカリフではなくアミールを名乗っている。アミールとはイスラム世界の世俗的面での長になる。現在のクウェート・カタール・UAEの君主の称号もアミールであるらしい。
※コインは、後ウマイヤ朝アミール ムハンマド1世  852〜886年


■アッバース朝から分離独立の動き
 大帝国のアッバース朝にも綻びが見えてくる。各地域からの分離独立の動きが広まる。その魁けはターヒル朝である。ターヒル朝は、独立はしても、宗教面ではアッバース朝カリフに従属する形になる。下のコインに見られるように、アッバース朝カリフの名も併記してある。
ターヒル朝の領主「ブン・アブドッラー
の名に加えて、アッバース朝のカリフ
「アル・ムタワッキル」の名も記されている。

独立はしても、宗教面ではカリフに従属す
るという形である。

※コインは、ターヒル朝 ブン・アブドッラー発行(845〜862年)


■カリフが二人に
  アフリカにファーティマ朝が興る。909年には、アッバース朝に対抗して自らがカリフであると名乗る。カイロカリフ・あるいは中カリフと呼ぶ。イスラム世界にカリフが二人になった。

■カリフが3人に
 929年、後ウマイヤ朝のアブド・アッラーフ3世もカリフを名乗る。下の図のように西カリフ・カイロカリフ・東カリフの3人となった。この中で一番宗教的権威も国力ものあったのは、アッバース朝である。しかし、そのアッバース朝も・・・。

10世紀中頃の勢力図

■ブワイフ朝がバグダッド占拠〜アッバース朝カリフは操り人形
 ついにブワイフ朝がアッバース朝を乗っ取る。ブワイフ朝の君主は、カリフに大アミールに任命してもらう。大アミールは世俗面での権力者である。代わりにカリフを保護する。こうして、カリフは形ばかりのものになってしまう。
■セルジューク朝トルコもカリフを利用
 ブワイフ朝を倒したセルジューク朝も、カリフを利用した。セルジュークの場合は、アミールでなくスルタンという称号を受ける。
 
※コインは、ブワイフ朝 Majd al-Dawla 発行(997〜1029年) 


■カリフを利用
 この後も、各王朝は君主の正当性や権威付けのためにアッバース朝カリフを利用した。つまり、アッバース朝は細々ながら伝統としてのカリフ業で、君主をスルタンに任命することで、存続した。

■モンゴル出現
 1258年、モンゴル帝国により、アッバース朝は滅ぼされた。外来のモンゴルにとって、カリフの利用価値など無いからである。

■しかしマムルーク朝で復活
 モンゴル支配を受けていないエジプトのマムルーク朝が、3年後の1261年、アッバース朝一族をカイロに招き入れて復活させた。マムルーク朝はなぜ、アッバース朝カリフが必要だったか。 
※コインは、マムルーク朝 後のSha Ban2世発行(1362〜1376年) 

■マムルークとは
 それは、マムルークという名から分かる。マムルークとは奴隷軍人である。イスラム世界では軍事は奴隷軍人が主となった。奴隷と言っても、古代ギリシャのような終身的な身分ではない。奴隷が軍事教練を受け、マムルーク軍団に入る。その中で有能な者は昇進できる。十人長から果ては指揮官へと。このようなマムルーク出身の軍人が君主となるのは、以前にもガズナ朝(977年〜)の例がある。

 マムルーク朝では、出自の点からアッバース朝の宗教的権威が必要だったのかもしれない。

■その後
 マムルーク朝の存続に合わせてアッバース家も生き残る。スルタン任命をし続けてきた。ところが、1517年オスマン朝により、マムルーク朝もアッバース家も滅びることになる。


日本ならカリフが天皇 スルタンが将軍

 ざっと見てきたカリフ権威の推移。これを見て日本史との類似点がある。3つのカリフ王朝が出現するのは、日本の南北朝をグレードアップしたかのよう。 そして、江戸時代に当てはめたら、カリフが天皇でスルタンは将軍。天皇は征夷大将軍の任命はするが、実権は持たない。よく似ている。



コインINDEXへ

inserted by FC2 system