中国古文銭   【No.1 周~戦国】     【No.2 秦~隋】 

秦の始皇帝が統一し、中央集権国家を樹立。度量衡を統一した。秦の半両銭を標準通貨をしたが、すぐさま他の戦国
貨幣の流通をを禁止できたわけではない。半両銭は秦から前漢へと軽量化していく。

【半両銭】 秦(BC221年)~前漢初期



左から

秦  半両 BC221年~

前漢 八銖半両 
    BC186年~


前漢 四銖半両 
    BC175年~

両・銖は、重量単位で、1両=24銖 である。だから半両ならば、12銖の重量(7~8g)の重さがなければならない。
ところが始皇帝の死後~前漢初めには、民間での私鋳が行われた。正規の重量より軽く鋳て、半両と称した方が得
である。そこで、次々に粗悪な半両銭が私鋳され、わずか1gに満たないのものまで作られた。楡莢(ゆきょう)半両と呼
ばれている。薄くペラペラの「楡(にれ)の実の莢(さや)」に例えたものである。

漢の高祖「劉邦」が造銭を民間私鋳に任せていたのは、統一後の余剰青銅武具や各種戦国貨幣が自然に半両銭に
鋳直され、通貨基準として定着、といった利点もあったためである。 ただし、私鋳銭の氾濫により、著しいインフレと
なった。

BC186年、漢で初めて八銖半両を官鋳し、私鋳を禁止した。一般に流通していた私鋳の半両銭は、3銖に満たないもの
であったところへ、その3倍ほどの高品質のものである。納税をこの貨幣で義務づけられたら、負担は3倍以上にもなり、
定着には無理があった。BC175年には、四銖半両が登場する。これは官鋳ではなく、重量や材質を官が規定し、その
基準に合うなら私鋳を認めるというものであった。これにより、ようやく貨幣経済が安定した。

【五銖・三銖】  前漢~後漢
貨幣重量が、本来の半両=12銖からどんどん軽量化していったので、額面の半両という単位
が意味を成さなくなる。現実的な実際の重量を貨幣の額面にすべきである。
そこで、BC140年、三銖銭(左画像)を発行する。ところが軽量な上、さらに軽量の私鋳銭が出
回り、インフレとなり混乱。この三銖銭の発行は廃止となった。再度、四銖の半両銭の発行へと
戻る。この時期から外郭がつくようになる。 外郭とは銭の外周部分の縁取りである。

左:三銖 前漢 BC140年

五銖銭の発行
BC118年から、半両という額面に変わり、実重量を額面にした「五銖銭」の発行が始まる。
それは官製でなく、郡国(各封建領主)に鋳造させた。従来の4銖の半両銭から5銖の新貨幣
を改鋳させるため、1枚につき5分の1の損失が出る。郡国の経済力を弱らせる巧妙な手段で
あった。

BC114年からは、三官五銖、官製の五銖銭が発行される(下画像・左)。ここから後は、銭の発行は官のみとなる。
もっとも、どの時代にも私鋳は絶えず行われていたが・・・。
 

(左)前漢 三官五銖(上横文)BC140年~

(中)前漢 小五銖
 ※超軽量の「小五銖」は、通貨ではなく
 副葬品であると考えられている。

(右)後漢 五銖 AD40年~

 王蒙→後漢への交代期、王蒙の国庫は散逸し
 た。後漢統治後しばらくは銭の発行能力はなか
 った。AD40年からようやく発行開始。



【王蒙銭】 新

前漢と後漢の間、AD8年~23年王蒙が新を建国するが短命政権であった。王蒙貨幣は高い鋳造技術で制作されて
いるが、その貨幣政策は失敗であった。王蒙貨幣は実際の重量にはるかに満たない名目貨幣である。それ以前の半両
銭も五銖銭も、実重量に満たなくとも流通する点では、名目貨幣といえるが、王蒙貨幣はそれが極端である。王蒙のねら
いは、金(gold)を国庫に集中させ、金と銭との交換率を国家が定める。金の在庫を背景に、実重量から乖離した各種銅銭
を発行する。実際の流通は金(gold)ではなく銅銭であるので、軽量化した分、国家の利益は莫大なものになる、というもの
であった。しかし実際には、貨幣経済の混乱を招くこととなる。極刑をもって禁止しても、私鋳が横行した。

AD7年~

前漢の五銖銭を50枚分とする「大泉五十
を発行(画像左)。同時に「契(栔)刀五百」、
「一刀平五千」を発行する。

AD9年

五銖銭・契刀銭を廃止し、宝貨制度を制定
する。一銖銭の「小泉直一」(画像・中)を五銖
銭と同じ価値として置き換える。高額銅銭は
布銭形である。

大布黄千(画像・右)は、小泉直一が1000枚
分とし、貨幣としてだけでなく、これを通行証
として、パスポートのように携帯を義務づけた。
(左)  新 王蒙 大泉五十 AD7年~
(右)  新 王蒙 小泉直一 AD9年~
新 王蒙 大布黄千 
AD10年~ 
AD14年頃~

AD7年からわずか3年間で2度
も貨幣制度の大改革があり、経
済は混乱した。対応すべく、AD
14年に3度目の改革を実施する。
信頼を取り戻すべく一銖銭の小泉
直一に代わり、前漢の五銖銭と同
程度の貨泉(画像・左)を発行。
高額面の貨布(画像・中)は、貨泉
25枚分とした。

画像・右の布泉は、文献にはその
発行の記載がないが、この時期の
王蒙銭であると推定されている。

AD18年、赤眉の乱が発生、23
年には、、王莽「新」帝国は滅亡す
る。
新 王蒙 貨泉
AD14年?~
新 王蒙 貨布 AD14年~  
    
新 王蒙 布泉
AD14年頃?~


三国


後漢末期、私鋳による悪銭があふれた。1枚の五銖銭を、内側とドーナツ形の外側の2つに切り分け、それを型として鋳造
した。董卓の発行した銭は銘もない粗悪な小銭であった。これら悪銭の横行で、良銭である従来の五銖銭は流通から姿
を消し、財産として死蔵される。「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則が最も顕著に進んだ時代であった。
流通貨幣価値は下落し、物品貨幣として現物の「布・穀物」が流通の中心となる。中国史上、貨幣経済が最も衰退した時期
である。

魏・呉・蜀の三国時代もその様相は変わらない。悪銭はもはや1枚単位では通用せず、100枚を単位とした。悪銭100枚
で良銭の五銖銭1~2枚に交換という。下画像のように、百・五百という単位の銅銭が、蜀・呉で発行される。これは、悪銭
100枚・500枚に相当するという意味で、当時の流通貨幣事情を反映している。



蜀には豊富な銅山があった。また、国力は魏・呉に劣って
いたため、貨幣政策に積極的に乗り出した。劉備は悪銭
100枚に当たる直百五銖(画像・左)を発行し、物価の平
準化と国庫の充実を果たしたと言われている。



蜀の直百銭は、魏・呉にも流入した。孫権は、この銭を意
識した
大泉五百(上画像・右)・大泉当千を発行した。
これらの発行量はさほど多くはない。
大泉五百
は、悪銭500枚分・直百銭5枚分となる。



魏の国には銅山が少なく、森林開発による燃料不足
もあって、銭の発行はほとんどなかった。銭を廃止し、
徴税を現物の絹布・穀物とした時期もあった。


太平百銭
左画像の「太平百銭」は、後漢末に「太平」を理念とした
張魯の「五斗米道」の発行といわれる。これは原始道教
教団で、漢中から蜀方面にかけて、215年までの独立的
な宗教政権であった。
西晋の年号「太平」を銘にしたという説もある。
蜀 直百五銖 214年  呉 大泉五百 236年

後漢末?
西晋?
 
太平百銭



南北朝



北朝銭

①北魏 太和五銖 495年  
②北魏 永安五銖 529年

③北斉 常平五銖 553年   
④北周 布泉    561年
⑤北周 五行大布 576年   
⑥北周 永通萬國 579年
北魏は鮮卑族で、前半は貨幣の流通を行わなかった。孝文帝になり貨幣使用を始める。太和五銖(画像①)は年号の
「太和」を銘にした。現物貨幣の絹布との交換率では、この銭価を高く設定したため、市場には受け入れられなかった。
永安年間に永安五銖(画像②)を発行するが、私鋳銭が出回る。この時期、南朝の貨幣が流入するようにもなった。永安
五銖は、東魏・西魏に分裂の後も、同名で鋳造された。

東魏に続く北斉は、常平五銖(画像③)を発行。重量もあり精巧な作りで信用を得た。市場銭価も高かったが、私鋳の粗悪
品が出回る。同時代、西部の北周でも非常に精巧な銭が作られた。蜀の地の銅山を支配下に置いたため、上質銭が発行で
きた。布泉(画像④)・五行大布(画像⑤)・永通萬國(画像⑥)を発行。布泉は、永安五銖、漢代の五銖銭などの5枚分
とした。布泉の10枚分が五行大布。永通萬國は、五行大布10枚分とした。

これらの銭の特徴は、銘に「五銖」など重量名を入れず、北魏銭のような年号も入れない。永通萬國のように、4字で一つの
意味をなす銘文は、後の唐代の「開元通宝」の魁けとなっている。
 
 
南朝銭
西晋~東晋、南朝では、長江流域の
開発が進み、貴族の荘園経営で商品
作物も増大した。経済発展に伴い、貨
幣需要は増大するが、流通するのは
悪貨と布・穀物で、良銭は死蔵された
ままであった。
後漢からの状況が変わらず、その点、
北朝と同様である。
良銭不足に対応して、宋は五銖銭の
伝統からはなれた四銖銭(画像・中)
を発行。さらには二銖銭の発行や民間
私鋳を認めるなどの政策をとったが、
さらに混乱をまねいた。
とうとう、自ら宋での発行銭を使用禁
止とし、漢代からの古銭だけを使用す
る。
左: 梁 内郭五銖 502~519年
右: 宋(劉宋) 四銖 454年
陳 太貨六銖 
579年
斉では、新たな貨幣を発行することはなかった。
梁は、天監年間、良質の内郭のある五銖(画像・左)を発行。しかし絶対量の不足のため、鉄銭五銖まで発行
し、逆にインフレをまねく。
陳は、独自に良質な五銖銭を発行した後、太貨六銖(画像・右)を発行。太貨六銖は、先に発行した五銖銭の
10枚分としていたが、市場ではほとんど等価となってしまい、すぐさま廃止した。したがって、太貨六銖の残存
量は少ない。


漢代からの悪貨の流通・貨幣経済の衰退・物品の貨幣化という
状態は、三国・南北朝へと約300年間ほど続いた。この状態に
終止符を打つためには、悪銭を取り締まる強大な権力と圧倒的
な量の良銭発行が必要である。それを可能にしたのが、隋であ
った。

外郭の太いこの五銖銭が、広く統一貨幣として定着した。左の
置様五銖は、通常の五銖銭(右)に比べ、重量は約2倍である。
市場流通価値も2倍であったかどうかは、不明である。

隋から唐への交代期、貨幣経済は一時的に混乱するが、隋五
銖により取り戻した貨幣の安定性は、次の唐の「開眼通宝」に
受け継がれ、さらに国際通貨として発展する。

隋 置様五銖         隋 五銖
581~605年        581~605年


参考文献
 貨幣の中国古代史 : 山田勝芳 : 朝日選書

 世界史年表・地図  :吉川光文社
 日本貨幣カタログ
 よみがえる漢王朝 : 大阪市立美術館
 平野氏HP → 


【No.1 周~戦国】     【No.2 秦~隋】


コインINDEXへ


inserted by FC2 system